「この戦争を、終わらせに来た!!!」
『ONEPIECE』シャンクスの言葉です。
♦三英傑を比較する事が出来る日本人は、それだけで幸福である
家康には、信玄や謙信のような戦術的天才はなく、信長のような新しい世界観を作り出す天才もなく、秀吉のような農民から天下人まで昇りつめる天才もありませんでした。
家康が、現代に生きていたのなら、普通に受験勉強をし、普通に国立大学に入学し、普通に公務員試験を受けて官僚になっていた事でしょう。
官僚は、官僚自らの力だけでは、影響力を発揮する事が出来ません。
官僚は、政治家のような引き立て役を、必要とします。
家康の場合、その引き立て役が、信長でした。
★いじめられる
☆利用される
★引き立てられる
家康は、少年の頃から、隣国である尾張の信長との関係が深く、最初は、いじめられ、次に利用され、最後には引き立てられます。
とはいえ、家康は、信長の家臣ではありません。
「誰かの下につきてェってタマじゃねェよな、お前。」
「ああ!おれは船長がいい!」
「だったら、ウチと同盟を結べ!」
「‥‥同盟?」
「お前とおれが組めば、やれるかもしれねェ‥四皇を一人‥!!!引きずり降ろす策がある。」
『ONEPIECE』ローとルフィの会話です。
信長と家康は、同盟者です。
信長は、家康を弟のように、愛しました。
否、弟よりも、愛しました。
否、否、信長が家康を愛したというより、家康が、信長に愛されるようにしたと表現をした方が、正確でしょう。
信長という日本史上類を見ない俺様タイプの天才に愛されるには、家康も俺様タイプの天才になっては、うまくいきません。
家康は、受け身に徹する必要がありました。
信長の生存中の家康の態度は、極めて女性的でした。
現代のビジネスに置き換えれば、家康は、信長の下請け会社の社長にあたります。
下請け会社を維持していく為には、徹底的に「律儀」である事を、必要とします。
信長の生存中の家康は「律儀」に徹しました。
ーたぬき親父ー
年老いて、ずる賢い男を、罵る言葉です。
家康を表現する時に、よく使われる言葉でもあります。
この表現は、1割正解であり、9割間違いです。
家康は、たぬき親父となったのは、死ぬ直前の数年間のみです。
家康は、その人生の、殆どの時間を「律義者」として、生きてきました。
「律義者」を演じていたのか、必死に生きてきたら「律義者」になったのか、本来の性格や環境が「律義者」のにしたのか、その本当の所は不明ですが、家康と同じ時代を生きてきた人達の家康に対する評価は「律義者」でした。
この評価が、家康を、後の天下人にさせます。
「全員ーこの場は、おれの顔を、立てて貰おう。」
『ONEPIECE』シャンクスの言葉です。
1572年(元亀3年):信玄が、信長を討つ為、甲斐の国を出立する
家康は、家臣の反対を押し切り、信長の為に、敵わぬ相手である信玄に、戦いを挑みます。
これが、家康が信玄に大敗する三方ヶ原の戦いです。
少々の才を持つ者であれば、ここで強者の信玄に、従うでしょう。
そうではなくても、逃げる・後退する・信長の援軍を待つ等の、対策を考えるでしょう。
しかし、家康は、愚直なまでに、信長に対して「律儀」でした。
ただの「律儀」ではなく、信長の為であれば、自軍が全滅しても構わないという程の「律儀」でした。
ー人間万事塞翁が馬ー
幸か不幸か、偶然か必然か、この信玄に対する大敗の中で魅せた家康の「律儀」が、後の家康の生涯を、決定づけるものとなります。
信玄に対する大敗により、信長が、心から家康を、信頼するに至った事は、間違いありません。
そればかりか、戦国社会の世評の中で、徳川家康という人間像をも、浮かび上がらせました。
ー家康こそ、信ずるに足る男であるー
戦国社会を生きる日本人の殆どに、上記のように思わせたこそが、家康を天下人にさせたのです。
「白ひげ、エース、2人の弔いは、おれ達に任せて貰う。」
「戦いの映像は、世界中に発信されていたんだ‥!!これ以上、そいつらの死を晒す様なマネはさせない!!」
「構わん!!お前なら‥いい赤髪‥責任は、私が取る。」
「すまん。」
「負傷者の手当てを急げ‥!!戦争は‥!!!終わりだァ!!!」
『ONEPIECE』シャンクスとセンゴクの言葉です。
秀吉の死後、秀吉子飼いの大名が、こぞって、家康の元に奔ったのは、この信頼感によるものです。
「律儀」は、単なる性格では、片付けられません。
誰が味方で誰が敵であるのかわからず、明日の命の保証もない戦国の世において、己の「律儀」を守る事は、奇跡に近いものです。
これは、家康の才能でしょう。
家康が、日本史上、最も大きな巨人となったのは、この才能による所が、大きいと、私は、感じています。