「命懸けで働いている者を笑うな。」
『どうする家康』徳川家康の言葉です。
♦初代将軍:徳川家康
徳川家康は、織田信長との同盟を、決して破りませんでした。
これにより、家康は、信長の進撃とともに、勢力を拡大していきます。
本能寺の変後は、三河・駿河・遠江・甲斐・信濃と、現在の愛知県・静岡県・山梨県・長野県を支配する大大名となります。
1590年:豊臣秀吉に領地替えを命じられ、関東へ移る
1600年:関ヶ原の戦いに勝利
関ケ原で勝利を収めた家康は、1603年江戸・現在の東京に「江戸幕府」を開きます。
ここから、日本は、260年間「江戸幕府」は、安定政権を築いていきます。
私は、家康により作られた「江戸幕府」による鎖国を始めとする封建的な世界観こそが、現在の日本人の村社会的な世界観を作り出しているという仮説を持っており「江戸幕府」に否定的です。
※封建的:上下関係を重んじ、個人の自由や権利を抑圧するような考え方
しかし、260年もの間、安定政権を築いたという事実は、日本史の中でも異例のものであり、そこから学ぶ事は、たくさんある事も、また事実です。
「人並みの者が受け継いでいけるお家こそ、長続き致しまする。」
「いうなれば、偉大なる凡庸といったところですな。」
『どうする家康』本田正信の徳川秀忠に対する言葉です。
♦2代目将軍:徳川秀忠
2代目には、大きく2つのタイプの人間が存在します。
★創業者を超えようと、規模を拡大したり、新しい事に挑戦しようというタイプ
☆新しい事に挑戦する事を嫌い、自分の地位を守る事ばかりに執着するタイプ
「江戸幕府」2代将軍・徳川秀忠は、後者のタイプの人物でした。
秀忠は、徹底的に家康を崇めます。
秀忠は、実直に、家康の手法を踏襲する事で「江戸幕府」の安泰を図っていきます。
秀忠は、真田正幸・幸村親子を破る事が出来ず、関ケ原に間に合いませんでした。
家康は、この秀忠の失態に、激怒します。
家康にすれば、関ケ原において、後継者である秀忠の存在を世に示す事で、徳川家の未来の安泰を、世に知らしめる狙いもあったのです。
しかし、秀忠は、関ケ原に間に合いませんでした。
秀忠が、関ケ原に到着した時には、すでに戦は、終了していました。
ー人間万事塞翁が馬ー
関ケ原から十数年後、秀忠が関ケ原に間に合わなかった事は、秀忠にポジティブな影響を与えます。
秀忠は、関ケ原に間に合わなかったおかげで、関ケ原の敗者達の恨みを買う事がなかったのです。
これにより、凡庸であった2代将軍・秀忠は、偉大過ぎる初代将軍であり父である家康のバトンを落とす事なく、繋ぐ事が出来たのです。
「余は、生まれながらの将軍である。」
『葵 徳川三代』徳川家光の言葉です。
♦3代目将軍:徳川家光
「江戸幕府」3代将軍・徳川家光は、居並ぶ大名に向かい、上記のように言ったという事が、後世に伝わっています。
ただ、家光が3代将軍になる事は、生まれながらに決定していた事ではありませんでした。
家光は、秀忠の長男ですが、秀忠夫妻は、次男の忠長を溺愛し、忠長を3代将軍にしようと考えていました。
これを知った家光の乳母(うば)・春日局(かすがのつぼね)は、駿府に隠居をしていた家康に直訴します。
※乳母:母に代わり、子に乳を与え、育てる女
家康は、春日局の直訴を受け入れ、江戸まで出向き、家光を3代将軍にする事を決めます。
現在も栃木県日光にある日光東照宮は、この家康の行動に感謝した家光が、莫大な費用を掛けて、家康の為に作ったものです。
また、家光は、春日局を大奥の取締役に任じ、従二位という高位まで与えます。
しばしば、家光は、春日局に政局の助言まで求めたとされています。
歴代将軍の中で、これ程までに乳母が権力を有した例はありません。
そのような事から「家光の母は、春日局であり、父は家康である」という噂が流れます。
噂に過ぎない話ではありますが、いくつか、その根拠を見つける事も出来ます。
☆『稲葉系図御家系典』に、春日局が将軍の子を宿したという記述が残っている
★『松のさかえ』という古文書に「竹千代君(家光)御腹 春日局」という記述が残っている
これらに加え、家光の生母とされる小督が、初姫を出産してから、9ヵ月後に家光を出産している事も、家光出産の謎を深めます。
「伏黒…とかいったか。どんな女がタイプだ?」
「返答次第では、今ここで半殺しにして、乙骨…最低でも3年は交流会に引っ張り出す。」
「ちなみに俺は…タッパとケツがでかい女がタイプです!」
「性癖にはそいつの全てが反映される。」
「女の趣味がつまらん奴は、ソイツ自身もつまらん。俺は、つまらん男が大嫌いだ。」
『呪術廻戦』東堂の言葉です。
さらに、家康という男の性癖があります。
家康は、異常な程の後家好みだったのです。
※後家:夫の死後、再婚しないでいる女。未亡人とも呼ばれる
春日局のようなバツイチ熟女は、家康の最高のタイプなのです。
家康が春日局と男女の関係を築いていても、何の不思議もありません。
このように考えると、春日局が、将軍である秀忠を通り越して、家康の元に直訴している事自体も納得がいきます。
まだまだ続く徳川将軍物語。
この続きは、また後程。