「織田軍のうつけ共よ‥我に続けっ!!」
「自らが前線に赴くことで士気を高め‥薄い壁を強固なものとした‥織田信長‥ですか‥。」
…届く‥信長様の登場で、士気は最高潮だ。これはーうつけが天才を凌駕するぞ…
『テンゲン英雄大戦』信長の言葉と、諸葛孔明の言葉、オッポの脳内言葉です。
♦海賊なら、信じるものは、てめェで決めろォ
信長が、現在を生きる私達日本人にまで与えた影響とは、何でしょうか?
私は、海外との貿易により自らの生活(戦国時代においては兵力)を豊かにする事とともに、日本人が本気で宗教という世界観を持つ人を殆どいなくした事が挙げられると思います。
信長が最も長く戦い続けた敵は、今川でも、武田でも、浅井でもありません。
信長が最も長く戦い続けた敵は、一向一揆衆です。
一向一揆衆とは、室町時代から戦国時代にかけて、浄土真宗(一向宗)の教えを信仰する人々、特に門徒たちが起こした一揆の事を言います。
彼ら彼女らは、教えを広める寺院や道場を中心に、農民や武士が団結し、時には戦国大名と対立しながら、自治的な活動を展開していました。
一向宗とは、親鸞を開祖とする「阿弥陀仏」を信じる事で救われるという世界観を持っている宗教です。
信長が敵対した一向一揆の中でも、最も苦しんだのが「長島一向一揆」です。
「長島一向一揆」は、現在の三重県桑名市を中心とした地域で、一向宗の門徒が蜂起した一向一揆です。
驚くべき事に、信長は「長島一向一揆」との戦いにおいて、2度敗北しています。
「ど畜生がぁ‥!!クソクソクソクソクソクソぉ!!」
「是非もなし。全軍退却!逃げるぞッ!」
『テンゲン英雄大戦』信長の言葉です。
♦昨日の敗者たちー今日のお前は何者だ?
★敗北をたくさん経験している
☆逃げるという選択を当たり前のように出来る
私が、信長が好きな理由です。
信長が「長島一向一揆」と戦っていた時の、信長の年齢は、37歳~41歳です。
この時、信長は、敵に囲まれていました。
上記のように四方を敵に囲まれた状態であるにも関わらず、敗北と逃げるを繰り返し、運が味方につくまで、戦い続ける事が出来る事が、信長の強みです。
つまり、信長は「長島一向一揆」に集中する事が出来ない状態にあったのです。
また、長島は①木曽川②長良川③揖斐川という3つの大きな川が流れる、戦国時代の物流の要であるとともに、尾張と伊勢の国境にありました。
尾張と伊勢の国境にあった長島。
川があり様々な人や物資が行き来し、国境にある場所は、開放区になりやすいです。
この影響もあり、現在でも、多くの都道府県の県庁所在地は、都道府県の真ん中ではなく、都道府県の境目にある事が多いのです。
戦国時代から、国境には、人と物資が集まりやすく、その名残が、現在まで続いているのです。
また、この頃より、日本史上初めて信長は「天下統一」を口にします。
信長曰く「天下布武」を成し遂げるには、京都と、自らが治める尾張や美濃を安全に行き来する必要があります。
京都と尾張・美濃を繋ぐ方法は2つ。
①関ケ原経由
②伊勢経由
①関ケ原は、浅井・朝倉に抑えられ、通る事が出来ません。
②伊勢も「長島一向一揆衆」に抑えられ、通る事が出来ません。
「天下布武」を掲げた信長にも、是が非でも、長島を自分の領地にする必要がありました。
「バァカ。おれは一生、神には祈らねェ!!!」
『ONEPIECE』ゾロの言葉です。
♦悪ィが、俺は、神に祈ったことはねェ
「信長包囲網」とともに、信長が「一向一揆」に苦しんだもう1つの理由があります。
それは「一向一揆衆」が信長とは、大きく異なる世界観を、持っていた事でした。
‥前に進めば極楽浄土。後ろに退けば地獄行き‥
当時の「一向一揆衆」が掲げていた、メッセージです。
「一向一揆衆」は、戦い死ぬ事で、極楽浄土に行く事が出来るという世界観で、戦っていたのです。
言い換えれば、極楽浄土に行く=死ぬ為に、戦うという事です。
恐ろしいと思いませんか?
現在のテロリスクにも通ずる世界観です。
幸か不幸か、戦国時代に生まれ落ちた天才が、上記のような世界観を持つ人達を、根絶やしにしていきます。
この天才の選択が、数万人の人の命を落とす事になりますが、若しかしたら、後の世で数十万人の命を救う事になったのかもしれません。
この続きは、また日程。