超江戸時代御三卿という仕組みが生んだ怪物ー二千年後の君へ32

 

 

 高市さんは、首相に選出されるのでしょうか?

 維新は、自民党と連立をするのでしょうか?

 十数年振りに、日本の政治は、動いています。

 

 実は、250年前の江戸時代においても、政治工作が繰り返され、自らと自らの家族の繁栄を巡り、政治闘争が繰り返されていました。

 

 

 

 「もう逃げない。」

 

キングメーカー・一橋治済、真の目的は「復讐」なのか? 最期まで田沼を守った家治【べらぼう】(Lmaga.jp) - Yahoo!ニュース

 

  大河ドラマ『べらぼう』一橋治済の言葉です。

 

 

 

  ♦御三卿という仕組みが生みだした怪物

 

 『べらぼう』一の悪役・一橋治済は、本来政治に参加する役職ではありません。

 治済は、「御三卿」の1つである一橋家の当主であり「御三卿」は、江戸城に居城こそすれ、領国の経営権や幕府政治への参入は、禁止されていました。

 

 「御三家」が独立した大名であるのに対し、「御三卿」は、将軍家に付属し将軍家に養われる存在であった為、独立性も裁量権も、ありませんでした。

 そんな「御三卿」の1人である治済が、何故江戸城で、最も影響力を握るようになったのでしょうか?

 

 

 御三卿が作られたのは、将軍家の継嗣(後継ぎ)が不在になった場合に備えて、将軍家を支える後継ぎを供給する目的でした。
 
 8代将軍徳川吉宗が、自身の血統を安定して次代につなぐため、息子である田安宗武、一橋宗尹、そして息子の家重の次男である清水重好をそれぞれ当主として創設しました。
 
 
 私は、この背景には、吉宗自身が元来将軍を継ぐ血筋ではなかった事が、大きく影響をしていると考えています。
 
 家康からの血統である徳川家に子が出来なかった事・将軍職となる御三家の男子や自身の兄弟が次々と亡くなった事で、「御三家」から始めて将軍になったのが吉宗でした。
 
 その為、自分以降の将軍には、自分の血を継いだ者が必ずなる事が出来るように作ったのが「御三卿」という仕組みです。
 
 
 
 
  
  御三卿が作られた主な理由

 

 ①将軍家の後継ぎを確保するため

 御三家のように独立した大名家ではなく、将軍家の一族という位置づけでした。御三家と異なり、居城は持たず江戸城内の屋敷に住んでいました。

 

 ②幕府への忠誠心を保つため

 将軍家と近い親族として、幕府の権力強化を図り、御三家との対立を避ける目的もあったとみられています。

 

 ③御三家が将軍職を継ぐ状況を避けるため

 御三家の場合は、将軍家以外に跡継ぎがいない場合でも、御三家が将軍職を継ぐことになっていました。御三卿が創設されたことで、将軍職が御三家以外の親族に、より安定した形で継承されることが可能になりました。

 

 ④紀州徳川家の権力強化

 御三卿は、御三家の一つである紀州徳川家の血筋を、御三卿の当主が代々継承し、紀州徳川家の勢力を拡大するという、当初の想定とは異なる役割も担うようになりました。

 

 

 

御三卿 - Search / X

 

  1779年(安永8年):10代将軍家治の長男・家基死亡

 

 これにより「御三卿」の1つである一橋家の治済の長男・家済が、次期将軍候補となります。

 実は、これにも裏があり、本来家基が亡くなった後に将軍となるのは、一橋家ではなく、清水家や田安家でした。

 しかし、自分の子どもを次期将軍にする為、治済は、政治工作を繰り返し、田安家の賢丸を、別の家に養子に出させます。

 

 この賢丸が、後に江戸幕府に帰還し「寛政の改革」を実行する松平定信である事も、歴史の面白みの1つです。

 

 

 

 「もう、どこまで逃げても逃げきれぬ気がする。いや、もはや逃げてはいけぬ気がする。この場所から。」

 

べらぼう』生田斗真演じる一橋治済は“敗北”するのか “悪行”の ...

 

  大河ドラマ『べらぼう』治済の言葉です。

 

 

 

  1786年(天明6年):10代将軍家治死亡

 

 家治の病状は、田沼意次が推挙した医師が投薬をした時より、悪化しました。

 これは、家治の病気の進行による部分が大きいと思われますが、治済は、この機会を逃しません。

 これを理由として、治済は、意次を、江戸幕府から追い出します。

 

 

  1787年(天明7年):治済の長男・家済11代将軍に就任

 

 治済は、意次を江戸幕府から追い出す為に、賢丸(松平定信)を、江戸幕府に呼び戻していました。

 意次を追い出すまでは、治済の思惑通りに動いていた定信でしたが「真面目過ぎる男」である定信は、徐々に治済の思惑通りに動かない存在となっていきます。

 

 

  大政委任論:将軍は、天皇から委任されているという考え方

 

 定信は「大政委任論」を説き、治済に対し「将軍の父だから、偉いとはならない。家康は天皇から委任され将軍となったから、大御所政治が出来た。」と説きます。

 この頃の政治は、実質治済が実権に握っており、将軍になった事もない者が、将軍の父という事で、政治の実権を握っているという不思議なものでした。

 

 定信の主張は、正論であり、理に適っています。

 しかし、ここが、優秀な人の欠けるべき部分。

 人は、正論が嫌いなのです。

 

 勿論、治済も、黙っていません。

 治済が見ていたのは、日本ではありません。

  ー自身の贅を尽くした生活と、一橋家の繁栄ー 治済が見ていたのは、これだけです。

 

 政治家失格と思われるかもしれませんが、政治家であるか否かを問わず、誰もが本音ではそうなのではないでしょうか?

 

 この続きは、また日程。