高市さんは、首相に選出されるのでしょうか?
維新は、自民党と連立をするのでしょうか?
十数年振りに、日本の政治は、動いています。
実は、250年前の江戸時代においても、政治工作が繰り返され、自らと自らの家族の繁栄を巡り、政治闘争が繰り返されていました。
「もう逃げない。」
大河ドラマ『べらぼう』一橋治済の言葉です。
♦御三卿という仕組みが生みだした怪物
『べらぼう』一の悪役・一橋治済は、本来政治に参加する役職ではありません。
治済は、「御三卿」の1つである一橋家の当主であり「御三卿」は、江戸城に居城こそすれ、領国の経営権や幕府政治への参入は、禁止されていました。
「御三家」が独立した大名であるのに対し、「御三卿」は、将軍家に付属し将軍家に養われる存在であった為、独立性も裁量権も、ありませんでした。
そんな「御三卿」の1人である治済が、何故江戸城で、最も影響力を握るようになったのでしょうか?
①将軍家の後継ぎを確保するため
御三家のように独立した大名家ではなく、将軍家の一族という位置づけでした。御三家と異なり、居城は持たず江戸城内の屋敷に住んでいました。
②幕府への忠誠心を保つため
将軍家と近い親族として、幕府の権力強化を図り、御三家との対立を避ける目的もあったとみられています。
③御三家が将軍職を継ぐ状況を避けるため
御三家の場合は、将軍家以外に跡継ぎがいない場合でも、御三家が将軍職を継ぐことになっていました。御三卿が創設されたことで、将軍職が御三家以外の親族に、より安定した形で継承されることが可能になりました。
④紀州徳川家の権力強化
御三卿は、御三家の一つである紀州徳川家の血筋を、御三卿の当主が代々継承し、紀州徳川家の勢力を拡大するという、当初の想定とは異なる役割も担うようになりました。
1779年(安永8年):10代将軍家治の長男・家基死亡
これにより「御三卿」の1つである一橋家の治済の長男・家済が、次期将軍候補となります。
実は、これにも裏があり、本来家基が亡くなった後に将軍となるのは、一橋家ではなく、清水家や田安家でした。
しかし、自分の子どもを次期将軍にする為、治済は、政治工作を繰り返し、田安家の賢丸を、別の家に養子に出させます。
この賢丸が、後に江戸幕府に帰還し「寛政の改革」を実行する松平定信である事も、歴史の面白みの1つです。
「もう、どこまで逃げても逃げきれぬ気がする。いや、もはや逃げてはいけぬ気がする。この場所から。」
大河ドラマ『べらぼう』治済の言葉です。
1786年(天明6年):10代将軍家治死亡
家治の病状は、田沼意次が推挙した医師が投薬をした時より、悪化しました。
これは、家治の病気の進行による部分が大きいと思われますが、治済は、この機会を逃しません。
これを理由として、治済は、意次を、江戸幕府から追い出します。
1787年(天明7年):治済の長男・家済11代将軍に就任
治済は、意次を江戸幕府から追い出す為に、賢丸(松平定信)を、江戸幕府に呼び戻していました。
意次を追い出すまでは、治済の思惑通りに動いていた定信でしたが「真面目過ぎる男」である定信は、徐々に治済の思惑通りに動かない存在となっていきます。
大政委任論:将軍は、天皇から委任されているという考え方
定信は「大政委任論」を説き、治済に対し「将軍の父だから、偉いとはならない。家康は天皇から委任され将軍となったから、大御所政治が出来た。」と説きます。
この頃の政治は、実質治済が実権に握っており、将軍になった事もない者が、将軍の父という事で、政治の実権を握っているという不思議なものでした。
定信の主張は、正論であり、理に適っています。
しかし、ここが、優秀な人の欠けるべき部分。
人は、正論が嫌いなのです。
勿論、治済も、黙っていません。
治済が見ていたのは、日本ではありません。
ー自身の贅を尽くした生活と、一橋家の繁栄ー 治済が見ていたのは、これだけです。
政治家失格と思われるかもしれませんが、政治家であるか否かを問わず、誰もが本音ではそうなのではないでしょうか?
この続きは、また日程。