「終生、上様にお仕えしとうございます。」
『べらぼう』江戸幕府10代将軍・徳川家治が子を持つ事を諦めた事を、意次に語った時の意次の言葉です。
♦足軽の子が、江戸幕府史上類を見ない実権を握る
意次は、これまでの「重農主義」から「重商主義」に、経済政策を大きく転換させようとしました。
これまでの「重農主義」では、米の価格が傾くと、江戸幕府の財政もすぐに傾きました。
その為、意次は、米以外の収入を作り出す事に、奔走します。
これにより、米だけに左右されない江戸幕府の財政を、作ろうとしたのです。
☆老中(表):政策の起案・執行
★側用人(裏):将軍の相談役
10代将軍家治から重用された意次は、老中と側用人を兼務します。
これにより、意次は、表と裏の両方を牛耳る事が出来るようになり、文字通り、江戸幕府の実権を握るようになりました。
この立場があったからこそ、戦国時代が終結して200年が経過し、現在の日本人と同じような封建的な世界観を持った役人達を相手に、①貨幣制度改革②株仲間の創設等、これまでの世界観を大きく変えるような政策を起案し、執行する事が出来たのです。
♧封建的:上下関係が厳格で、個人の自由や権利が軽視される世界観
しかし、意次の経済政策は、当時の人々に理解されませんでした。
これに加え、江戸幕府の中で、出世街道をひた走り、権力を握る意次に、譜代大名達の怒り・恨み・妬みが、溜まっていきます。
♧譜代大名:江戸時代において、徳川家康に早くから仕え、大名に取り立てられた武家
そのような中で、あの事件が、起こります。
「咲太君、人ってどうして、色々な出来事を忘れるんだと思いますか?」
「きっと、辛い記憶が永遠に続くことに耐えられないから、人は、忘れるんです。」
『青春ブタ野郎は、バニーガール先輩の夢を見ない』牧之原翔子の言葉です。
♦田沼の時代とともに、日本が成長する機会が失われる
意次は、嫡男である田沼意知(おきとも)を、若年寄に、抜擢します。
♧若年寄:老中を補佐し、旗本・御家人の統制・江戸城内部の事務を担当する重職
勿論、この意図は、意知を、意次の後継者にする事にあります。
田沼の時代は安泰と思われた最中、事件が、起こります。
1784年(天明4年): 意知、江戸城で斬られ、数日後に息を引き取る
事件の首謀者が、佐野政言である事は間違いなく、佐野の個人的な恨みが起こした事件である事も、間違いありません。
しかし、この事件には、不可解な要素が、多分に含まれています。
江戸城内部の治安を守る役割の職を持つ者が16人その場にいたにも関わらず、誰も、佐野を止めようとしなかったのです。
これにより、意知の殺害には、江戸幕府内部の政治が、絡んでいるのではないかと想像が出来ます。
若しくは、戦国時代から200年が経過し、本気で人を殺そうとする人物を前に、誰も一歩を踏み出す事が出来なかったのかもしれませんが‥。
…日本が外国人に開放され、日本人が他国を訪れる機会が途絶えてしまった…
意知と交易を重ねていたオランダ商船・ティッチングの手記です。
また、当時米価格の上昇と浅間山の噴火等により、米を食べる事にも苦労していた人々は、意知を殺害した佐野を賞賛します。
意知の遺骨に対して、石を投げる人々も、いました。
「私達が、苦しいのは田沼の所為だ。」
当時の人々の怒りの矛先は、意次や意知に向いたのです。
ー大切な息子を失い、世の中は息子を殺した佐野を賞賛し、息子の亡骸には石を投げられるー
普通の人であれば、立ち上がる事が出来ない状況においても、意次は、立ち上がります。
「強がらずともよい、掌中の珠のような子息を失い、さぞ…」
「何も失うてはございませぬ。」
「あやつはここにおりまする。もう二度と、毒にも、刃にも倒せぬものとなったのでございます。」
『べらぼう』意知殺害の黒幕とされている一橋治済と意次の会話です。
意次は後継者である息子を失い、日本は外国に開かれ国として成長する機会をも失います。
「ちゃんと認めてあげないと駄目ですよ。咲太君の中にある、未来を拒んだ弱い自分を。」
「その弱さを信じることが、今を、未来だと認める第一歩なんです。」
『青春ブタ野郎は、バニーガール先輩の夢を見ない』牧之原翔子の言葉です。
意次が生きた時代の武士の世界観は「商売=汚らわしいもの」というものでした。
しかし、意次のような人物は、このような「立派な武士がやる事ではない」という世界観を、飛び越える事が出来ます。
意次は『べらぼう』でもあるように、吉原からも、税を取ります。
税を取るという事は、遊郭を社会の一員として、認める事でもあります。
伝統的な価値観を大切にするというだけの下で育った譜代大名には、決して出来ない選択です。
意次は、伝統的な価値観よりも、実を取る事に、躊躇のない人物でした。
田沼の時代とは「道徳的にズレた人が、光を浴びた時代」でした。
ただ、そのような田沼の時代からは「成功出来る人と成功出来ない人」が、わかりやすく生まれます。
そして、意次が見ていたのは、最後まで、将軍だけでした。
これ程、将軍の為だけを想い、尽くした人物もいないのではないでしょうか?
ただ、意次は、下の人達に対する配慮が欠けていました。
自由化政策と中央集権化は、近代の条件です。
しかし、その時代に、貧しい状況に置かれた人には、救いがあるのでしょうか?
私は、意次派ですが、何かを成そうとした場合、これをする事により、負担を強いる事になる人達の事も考える必要がある事を、意次から学ぶ事が出来ます。
これは、私の持論ですが、田沼の時代が続けば、明治維新はもっと早く訪れるとともに、現代の日本人の封建的なDNAも、少し変わったものになっていたと考えています。