「2年間プレイ出来ずに苦しんでいた中、声を掛けたのが、現在アタランタを率いているガスペリー二が監督をしていたジェノアでした。」
「ジェノアに移籍をしたものの、膝の怪我を抱えていたモッタは、ガスペリー二にまだ試合には出れませんと伝えます。しかし、ガスペリー二は、出なくてもいいからピッチの近くで試合を観るんだと、伝えます。そして、その試合、モッタは、ラスト15分のみ出場します。」
「試合後、ガスペリー二は、モッタに対して、チアゴお前は歯が痛いのか、肩が痛いのか、お前の膝はもう治っていると伝えました。」
「この大一番に望む前、ユベントスの監督となったモッタは、ガスペリー二には感謝をしている。本当に、久し振りにサッカーを楽しいと感じる事が出来たからねとコメントしています。」
師弟対決となったユベントスVSアタランタの、北川さんの実況です。
終わった選手、否、バルサでプレイをしていた時から私には頼りなく観えていたモッタですが、ガスペリー二に救われてからのモッタは、以前のモッタとは、別人のようなプレイをしていた事を記憶しています。
インテル・パリに移籍をし、数多くのタイトル獲得に貢献します。
特に、パリに移籍してからの、モッタ・ラビオ・ヴェラッティの中盤は、どの試合においても、ゲームを支配しており、美しいものであったと記憶をしています。
渋谷駅に現れた、リクルート・エージェントの広告です。
人は、人と、強くなります。
その場所で輝けなかったら、別の場所に行けばいい。
その場所で人と出逢えなかったた、別の場所で出逢えばいい。
その場所が、あなたの世界の全てではありません。
♦古墳時代の馬は、現在のスマホ
高句麗軍の騎馬軍団に大敗を喫した、倭国(日本)。
倭国の人々は、帰国後、馬の生産に取り組みます。
☆機動力
★攻撃力
馬を戦に加える事で、攻撃力・機動力を、手に入れる事が出来ます。
当時の馬は、時速39㎞で走る事が出来ました。
人が走ると、時速8㎞程度である為、馬は、その約5倍の速度で走る事が出来ます。
また、当時の記録で、2日で200㎞移動したとも記されており、短距離・長距離ともに優れた馬は、機動力に優れていました。
馬を使って矢を放つ事で、人対人では、出来なかった攻撃をする事が可能となります。
実際に馬を使って矢を狙った場所に的中させる事は、戦の中では困難ですが、敵にそれが可能であると思わせるだけでも、かなりの攻撃力となります。
♦5世紀前半、同盟国の百済(くだら)から、雄雌2頭の馬が贈られる
当時、馬の繁殖は、現在の大阪にあたる河内の国で行われていました。
しかし、大量生産をするには、土地が手狭でした。
そこで、手を挙げたのが、現在の群馬県にあたる東国の小国でした。
☆浅間山(あざまやま)榛名山(はるなさん)赤城山(あかぎやま)の3つの山に囲まれた原野である為、雑草が生い茂っている
★利根川が、馬が逃げないような自然の柵となる
このような理由から、群馬県が、馬の放牧に、ピッタリの場所でした。
東国の小国である現在の群馬県の国は、馬を武器に、大和政権と対等に渡り合います。
人やお金・物資等が足りなくても、戦い方により、大きな相手とも、対等に渡り合う事が出来るのです。
♦高句麗の騎馬軍団に敗れ半世紀、倭国再び海を渡り、高句麗と戦う
今度は馬を連れ、再び高句麗に挑んだ倭国。
『日本書紀』には、大いに破ったと記されています。
♦その後の日本史は、大和政権一強の時代となり、古墳を作る必要がなくなる
東国の小国である現在の群馬県の国は、時の経過とともに、大和政権と対立していきます。
そして、大和政権に抗うものの、敗れてしまいます。
敗れるものの、彼ら彼女らの武器であった馬は、後の日本史にも度々登場します。
☆平将門
★源頼朝
彼らが軍で使った馬は、いずれも、群馬県の馬でした。
▲古墳を作る理由は、なんでしょうか?
▼力を誇示する為
大和政権一強の時代となり、古墳を作る時代も、終焉を迎えます。
現在の日本人にも強く残されている世界観ですが「あの人の子どもだから、凄い」という世界観により、支配をする事が可能になったのです。
物よりも、物語が勝る。
日本史を学ぶ事で、気付く大切な学びです。
現在の江戸城には、天守閣がありません。
家康の時代には、天守閣がありましたが、家綱の時代に、天守閣は焼失してしまいます。
しかし、家綱、否、後の徳川将軍たちも、天守閣を再建しませんでした。
最早、天守閣がなくとも、誰もが、徳川将軍の事を「敵わない人」と感じていたからです。
日本史を学んでいると、日本人にも「右向け右」「皆がやっているから」「上の人には従う」という現在の日本人のDNAにも深く刻まれているような世界観とは、異なる世界観を持ち、行動をしていた人達に出逢う事が出来ます。