ーー「ケアマネなら、わかりますよね?」
でも、その「ケアマネなら」の部分は、言葉になっていない。
本当は、苦しいのかもしれない。
本当は、怖いのかもしれない。
本当は、限界なのかもしれない。
けれど、人は弱っている時ほど、本音を上手く言葉にできなくなる。
だから「察してほしい」という形になるーー。
♦察してほしいが、誰にも届かない場所で
家族が限界に近づいてくると、言葉は曖昧になっていきますーー。
★大変なんです
☆もう、限界で
★何とかなりませんか?
ーーしかし、その一方で本当に必要な情報は、共有されない事が多いです。
★誰が、どこまで介護をしているのか
☆本人が、実際どういう状況なのか
★家族間で、共有ができているのか
☆お金の問題は、どこまで深刻なのか
このような現実程、家族の中で歪みやすいです。
なぜなら、家族には感情があるからです。
さらに、事実は、家族を通る中で変化していきます。
たとえば、ケアマネ→長女→次女と情報が伝わる中で、事実は少しずつ変わっていきます。
★提案した→何もしてくれない
☆説明した→聞いていない
★断れた→提案してくれない
☆調整している→動いていない
ケアマネが現実で行った支援と、家族内で共有される認識が、一致しなくなるのです。
ただ、家族は悪意で言っているわけではない事が多いです。たまに、悪意で言っている人もいますが‥。
家族自身がーー
★疲弊
☆不安
★罪悪感
ーーの中にいる為、認知そのものが感情に引っ張られるのです。
ーー支援とは「伝える」と「確認する」の上に成り立つ。
しかし、現場ではいつの間にか「言わなくても、わかってくれるはず」が前提になっていく。
家族は、説明する力が残っていないのかもしれない。
だから、最後に察する役割だけが、残される。
そして、その役割は、1人のケアマネへ集中していく。
人を壊すのは、強い言葉だけではない。
察して当然という空気も、静かに人を壊していくーー。
ー現実の輪郭と、言葉にならない想いの、境界線に立たされ続けられるー
ここで、ケアマネだけが事実と感情の間という、非常に特殊な立場に置かれます。
なぜならーー
★家族の感情は、理解しなければならない
けれど、事実確認もしなければならない
☆制度上の説明責任がある
けれど、関係性を壊してはいけない
ーーという極めて高度な感情労働を求められるからです。
しかも、どれだけケアマネが動いていても「何もしてくれない」の一言で、全てが消えてしまう。
ここに、ケアマネという仕事の深い消耗があります。
ーー察すること。それは、優しさでもある。
しかし、人は察し続ける側になると、少しずつ壊れていく。
言葉にならない感情を、受け取り続ける。
説明されなかった期待を、背負い続ける。
それでも問題が起きれば「何で気付いてくれなかったの?」と言われる。
だから、介護の現場から次々に人が消えていく。
誰にも見えない場所で、誰かの感情を支え続けた人から、先に辞めていくのであるーー。
ー言葉にされなかったものは、見えない。しかし、ケアマネだけはそれすら見えて当然を求められるー
そして、介護の現場では、いつの間にか、役割が変化していきます。
家族が「言わなくても、わかってほしい」を求め始めるのです。
ただ、ケアマネはエスパーではありません。
言葉にされなかった事までは、わかりません。
まして、家族間で情報が変化し、感情が混ざり、事実が揺らぐ中で、全てを正確に把握する事は、不可能です。
それなのに、最後には「ケアマネなのに気付かなかったんですか?」という言葉だけが、残ります。
ーー問題が、起きなかった時には、仕事をしていないようにされる。
問題が起きた時だけ、存在が可視化される。
この構造の中で、ケアマネは静かに疲弊していく。
現場では、同じ言葉が増えていく。
「もう、ケアマネだけはやりたくない」
これは、弱さではない。
家族が抱えきれなくなった感情。
社会が支えきれなくなった責任。
言葉にならなかった期待。
その全てを、最後にケアマネへ集中させ続けた結果なのだーー。
ーやっても評価されず、やらなければ責められる場所に、人は長くは立てないー
ケアマネが辞めていき、有効求人倍率が10倍を超える理由は、単に業務量が多いだけでも、単に給料が安いというだけではありません。
その本質はーー
★察することを求められる
☆感情を受け止めることを求められる
★家族間で変化した情報の責任まで求められる
→それでも「やって当然」と扱われる
ーーという無限責任構造にあります。
その結果、現場では静かに同じ言葉が増えていきます。
「もう、ケアマネだけはやりたくない」と。
これは、ケアマネ個人の弱さの話ではありません。
家族システムの限界と、感情処理の役割を、ケアマネへ集中させ続けた社会構造の結果なのです。