障害を理解することは、教えられる。けれど、その正しさを疑うことは、なぜ教えられないのか?3





 ーー言えなかった言葉は、消えたわけではなかった。

 納得できなかった気持ちも、受け入れられなかった出来事も、ただ、声にする場所を失っていた。




 やがて、沈黙は、思いやりと、呼ばれるようになった。

 異論は、配慮のなさと、呼ばれるようになった。




 誰もが、正しい言葉を、口にしていた。

 誰もが、誰かを、守ろうとしていた。




 それでも、その場所から、誰かの声が消えていたーー。








  ー配慮が異論を許さなくなった時、守られているのは、人なのか。それとも、正しさなのかーー




 そして、正しさは、疑われなくなってきたーー。



   ★障害のある人を、理解しよう

   ☆その人の気持ちを、尊重しよう

   ★傷つけないよう、配慮しよう



 ーーどれも、間違った事ではありません。寧ろ、必要な事だと思う。

 だからこそ、その言葉に、疑問を挟む事が、難しくなっているーー。



   ★理解が、足りない

   ☆配慮が、足りない

   ★相手の立場に、立っていない



 ーーそう言われた時、人は、自分の言葉を心の奥に、引っ込めます。




 自分の考えが、間違っていたのかもしれない。

 自分には、見えていないものがあるのかもしれない。


 そうやって、立ち止まる事は、大切です。

 けれど、立ち止まる事と、声を失う事は、同じではありません。






 障害のある人がーー



   ☆傷つくことが、ある

   ★生きづらさを感じることが、ある



 ーーこれは、否定出来ない現実です。

 けれど、障害がある事と、その人の言葉や行動が、正しいという事は、同じではありません。





 傷つけられた側にもーー



   ★感情が、ある

   ☆納得できないことが、ある

   ★守らなければならないものが、ある



 ーーその感情は、どこへ行けばいいのだろうか?









 ーー誰も傷つけない世界など、あるのだろうか?

 そんな世界はないと、私は思う。




 私達は、傷つけないことだけを、正しさと呼んでいないだろうか?

 誰かの尊厳を守るために、別の誰かの声を奪う。




 その矛盾にさえ、気づけなくなった時、正しさは、一体誰を守っているのだろうーー?






 
  ー配慮が異論を許さなくなった時、尊重は、いつしか沈黙の強制になるー




 相手を理解する為に、自分の気持ちを抑える。

 相手を尊重する為に、自分の意見を飲み込む。



 それが、常に、正しい支援なのだろうか?

 もし、そうだとするのなら、そこにあるのは、本当に対等な関係なのだろうか?




 誰かを守る事と、その人の言動を問わない事は、違う。

 誰かを尊重する事と、その人に異論を伝えない事も、違う。



 その違いを見失った時、配慮は、いつしか特別な力を持ち始めると、私は思うーー。




  ★異を唱える人は、理解のない人になる

  ☆納得できない人は、思いやりのない人になる

  ★自分の意見を伝える人は、わがままな人になる




 ーーそして、誰もが正しい言葉を、選ぶようになる。誰もが、傷つけない言葉を、探すようになる。

 その中で、その場に違和感を感じた人の苦しさだけが、語られないまま、残る。




 私は、これは障害のある人を、弱い存在として、扱っている事のようにも、感じるーー。



   ★守られるべき、人

   ☆理解されるべき、人

   ★配慮されるべき、人



 ーーそうした言葉の先にいる障害のある人も、1人の人間である。

 1人の人間であるのならーー



   ★間違えることが、ある

   ☆誰かを傷つけることが、ある

   ★誰かと意見が合わないことが、ある



 ーー障害のある人も、1人の人間であるのなら、それでも、その人の尊厳が失われる事は、ないはずです。

 それならば、障害のある人の言動について、異なる意見を伝える事も、尊厳を損なう事には、ならないはずです。








 ーー傷つけないことが正しさなのだとしたら、傷つくかもしれない言葉は、全て間違いなのだろうか?

 

 耳に痛い、言葉。受け入れたくない、指摘。

 自分の正しさを揺るがす、異論。



 これらを遠ざけることが、本当に、その人を、守ることなのか?



 守られる事と、何も問われない事は、違う。

 尊厳される事と、常に肯定される事も、違う。



 それでも、私達は、その違いを口にすることさえ、躊躇ってしまうーー。








  ー配慮が異論を許さず、善意が疑問を封じる。その時、正しさは誰かを守る盾ではなく、誰かを黙らせる壁になるー




 対等であるという事は、いつも、相手を肯定する事では、ありません。

 

 異なる意見を持ちながら、相手を1人の人間として、接する事。

 納得出来ない事があっても、その人の存在まで、否定しない事。

 

 そして、自分の意見を、初めから間違いであると、決めつけない事。

 これは、相手を否定しない事より、難しい事かもしれません。


 そこには、誰かを一方的に正しい側へ置く事で、得られる安心感がないから。自分で、考えなければならないから。






 正しさは、時に、人を救います。

 けれど、正しさが疑われなくなった時、正しさから外れた声は、間違いとして片付けられてしまうーー。



 ★誰かを、傷つけた声だけではなく

 ☆誰かを傷つけているかもしれないと、問いかける声も



 ーーそうして、正しさは、自分自身を、守り始める。

 

 自分が誰かを、傷つけている可能性から。

 自分の信じているものが、誰かを苦しめている可能性から。






 本当に守らなければ、ならないものは何だろうーー?



   ★障害のある人を、守ること

   ☆障害のある人の、尊厳を守ること


 
 ーーそれは勿論、大切な事です。



 けれど、その為に、別の誰かの感情がなかった事にされるのなら。

 異なる意見を持つ事さえ、許されなくなるのなら。



 私達は、何を守り、何を置き去りにしているのだろう。

 誰かを守るという正しさが、誰かの声を奪っていないか?



 その問いまで奪ってしまうような正しさを、私達は、本当に正しさと呼べるのだろうか?