「いい人」が多いのに、対話が難しい理由2ー誰が悪いかを超えてー




 ーー人は、問題よりも、犯人を求める。

 何かが起きた時、私達は「何が起きたか」を考える前に「誰が悪いか」を考えてしまう。



 その方が、楽だからだ。

 問題は複雑だが、犯人は分かりやすい。




 構造は見えないが、人は見える。

 だから私達は、出来事を理解する代わりに、誰かに意味を背負わせる。



 あの人が悪い。あの人が原因だ。あの人さえいなければ‥‥。

 しかし、本当にそうだろうか?



 私達は問題を見ているのではなく、問題を背負わされた人を見ているだけなのかもしれないーー。






  ♦見えない構造、見える犯人



 敬意について考えていると、もう1つの問いに辿り着きます。

 「なぜ私達は、問題そのものではなく、人を問題にしてしまうのだろうか?」 


 私達は、問題を語っているはずなのに、いつの間にか人を語り始めてしまいます。



 何かが起きた時、本来問われるべきなのは「何が起きたか」です。

 しかし、現実には「誰がやったのか」が、先に問われます。



 



 ーー1つの失敗が、その人の評価になる。

 1つの言葉が、その人の人格になる。

 1つの過ちが、その人の存在そのものになる。


 
 本当は、違うはずなのに。



 人は、失敗そのものではない。

 人は、意見そのものではない。

 人は、過去そのものでもない。



 けれど私達は、不安になるほど、単純な答えを求める。

 複雑な構造よりも、わかりやすい犯人を求める。

 理解することよりも、判断することを選ぶーー。





  ー構造は、見えない。人は、見える。だから私達は、問題より先に誰かを問題にしてしまうー



 何かが起きた時、本来問われるべきなのは「何が起きたか」です。

 しかし、現実には「誰がやったのか」が、先に問われますーー。



  ★事故が起きれば、犯人探しが始まる

  ☆ミスが起きれば、責任者探しが始まる

  ★対立が起きれば、悪者探しが始まる



 ーーもちろん、責任は必要です。

 しかし、責任を明らかにする事と、誰かを問題そのものとして扱う事は、違います。




 人は、不安に耐える事が、苦手です。

 問題が複雑であればある程、私達は、原因を1つのものに絞りたくなります。


 本当はーー


   ★組織の構造かもしれない

   ☆歴史の積み重ねかもしれない

   ★偶然の重なりかもしれない


 ーーしかし、これらは見えにくいもの。構造は、複雑だからです。




 その一方、人は見えやすい。

 人はーー


   ★目の前に存在する

   ☆名前がある

   ★所属先がある


 ーー責任を背負わせやすい。


 だから、私達は「構造を理解する代わりに、人を原因にする」のです。





 
 ーーそして、気が付けば「何が起きたのか」という問いは消え「誰が悪いのか」という問いだけが、残る。



 その時、私達は出来事を見ているのではない。

 人を、見ている。


 否、人を見ているのですらない。

 自分の中にある不安や怒りの置き場所を、探しているのかもしれないーー。





  ー「あの人が悪い」は、最も簡単で、最も学びの少ない結論であるー



 構造を理解するには、思考が必要です。

 人を責めるには、感情だけで足ります。



 そして、日本社会は、特にこの傾向が強いです。

 何故なら、日本は長く共同体の社会だったからです。



 村という共同体ではーー


   ★制度より、人が重要だった

   ☆ルールより、関係が重要だった

   ★仕組みより、信用が重要だった



 ーーその為、問題が起きると「仕組みに欠陥があった」ではなく「誰かが村の秩序を乱した」という理解になりやすかった。




 日本では、問題は「現象」としてではなく「関係の乱れ」として認識されやすいのです。

 
 だから、会議でーー


 
  ★制度の話をしているはずが、人格の話になる

  ☆仕事の失敗を話しているはずが、その人の能力の話になる

  ★意見の違いを話しているはずが、その人の人間性の話になる



 ーーそして、ここで敬意が、失われる。



 人を問題そのものとして扱い始めた瞬間、私達は相手の人格を見る事を辞めます。

 

 「あの人が悪い」という言葉は、非常に便利だーー。


   ★考えなくて、済む

   ☆理解しなくて、済む

   ★構造を見なくて、済む


 ーーしかし、その瞬間に学習は終わる。



 何故なら、人を原因にした時点で、問題は個人の中に閉じ込められるからです。






 
 ーーだから、私は思う。


 成熟とは、正しい人になることではない。

 優しい人になることでもない。



 成熟とは、目の前の出来事と、目の前の人を、切り分けて見ること。

 失敗の向こう側にいる、一人の人間を見失わないこと。


 それが敬意の始まりではないだろうかーー。





  ー「誰が悪いか」は、過去を裁く問いである。「何が起きているのか」は、未来を作る問いであるー



 構造を見る人は、違いますーー。



  ☆「なぜ、この人はこうなったのか」を考える

  ★「なぜ、この状況が生まれたのか」を考える

  ☆「同じ事が起きない為に、何が必要か」を考える



 ーーそこでは、非難より、理解が生まれます。

 処遇より、改善が生まれます。

 排除より、対話が生まれます。





 敬意とは、優しさではありません。

 敬意とは、人を問題そのものにしない知性です。



 相手に、責任を求める事は出来ます。

 相手に、行動の修正を求める事も出来ます。


 しかし、相手の存在そのものを問題にしないこと。



 人は、問題ではない。

 問題は、問題である。


 その区別が出来た時、私達は初めて「誰が悪いか」ではなく「何が起きているのか」を語れるようになります。