そして、誰もケアマネをやらなくなった23ー誰かに引き渡した荷物が、また自分の手元に戻ってくるー
ーー誰かに引き渡したはずの荷物が、また自分の手元に戻ってくる。
置いたはずなのに。手放したはずなのに。
気付けば、また自分の腕の中にある。
ここに、ケアマネの疲弊の根幹があるーー。
ー「連携」という言葉の中で、荷物だけがケアマネの所へ戻ってくるー
虐待があった。
そんな時、ケアマネは、動きますーー。
★本人の、状況を確認する
☆家族から、話を聞く
★地域包括支援センターに、連絡をする
☆地域包括支援センターと、一緒に訪問する
ーーここまでやった。
そこから先は、虐待に関しては、地域包括支援センターや行政の対応となるはずなのに、それでも、その後の対応まで「ケアマネさん、お願いします。」となる事があります。
少し、考えてみてください。
「虐待への対応は、ケアマネが背負う問題なのでしょうか?」
ケアマネは、虐待の疑いを見つけたら、必要な機関に繋ぎますーー。
★本人の、安全を確認する
☆必要な情報を、共有する
★そして、ケアマネとして必要な支援を続ける
ーーけれど、虐待への対応そのものまで、ケアマネが引き受ける必要はありませんーー。
★地域包括支援センターが、ある
☆行政が、ある
★必要に応じて警察も、ある
ーーそれにも関わらず「地域包括に相談したから、大丈夫。」ではなく「地域包括にも相談したけれど、ケアマネも何とかしてください。」になる。
ーー「連携」という言葉の中には、誰かの「何とかして」が隠れている。
だから、私には「連携」という言葉が、時々呪いのように聞こえてしまう。
「連携」とは、本来支え合う言葉だった。
しかし、ケアマネの現場では「あなたが、背負ってください」という意味になってしまっている。
そして、その言葉を何度も聞いているうちに、ケアマネは「連携」という言葉を聞くだけで、また1つ仕事が増えるように感じてしまうーー。
ーケアマネが、いなくなっているのではない。ケアマネに、背負わせ過ぎているー
ここに、ケアマネの疲弊の根幹があります。
問題は「ケアマネが、虐待対応をするべきか?」ではありません。
本当の問題は「1度繋いだ問題が、何故か再びケアマネの所へ戻ってくる」事にあります。
地域包括支援センターに相談をし、同行訪問をし、情報共有をする。
ここまでやった。
それにも関わらず「その後も、ケアマネさんお願いします。」となる。
これが積み重なると「連携」と呼ばれていたものが、いつの間にか「ケアマネに、任せる事」に、変わっていきます。
実際にケアマネとして仕事をしていると「連携」という言葉自体が、呪いのように感じる事があります。
実際のケアマネの仕事において「連携」とは「責任の引き渡し」のように感じる事が、多いからです。
何か起きて関係機関に繋いだ後も、再びケアマネに戻ってくるという、構造ーー。
★「その後、どうなりましたか?」
☆「ケアマネさんからも、伝えて下さい。」
★「ケアマネさん、何とかしてください。」
ーーその1つ1つは、小さなお願いなのかもしれません。
けれど、それが積み重なると、自分の仕事の境界線が、少しずつ消えていきます。
そして、気付かないうちに、ケアマネの時間と、心の余白が、少しずつ削られていきます。
だからこそ、私達は「任せる」と「押し付ける」の違いを、考えなければなりませんーー。
★地域包括に、相談した
☆地域包括と、一緒に訪問した
★必要な情報も、共有した
ーーそこから先は、虐待に関しては、地域包括が中心になって対応をする。
ケアマネは、ケアマネとして、必要な支援を続ける。
それでいいと、思う。
寧ろ、それが「連携」なのだと、思う。
「連携」とは、ケアマネに何とかして貰う事ではありません。
「連携」とは、ケアマネを中心に、皆が、それぞれの役割を果たす事です。
ケアマネが問題を引き受けるのではなく、問題を、それぞれの専門性へ返していく事。
そうしなければ「何とかしてください。」という一言が、また1人、ケアマネの時間と、心の余白を、奪っていきます。
「誰も、ケアマネをやらなくなった」は、未来の話ではありません。
ケアマネの有効求人倍率は、約10倍になっており「誰も、ケアマネをやらなくなった」という現実は、すでに始まっています。
ケアマネがいなくなるのは、ケアマネの問題ではありません。
「ケアマネに、何を背負わせているのか?」
この問いを、支援する側・支援される側の全てが、考えなければならない時が、きています。