ーーいい人を演じているように見える人ほど、本当は人を見ていない気がする。
そこにあるのは対話ではなく、あらかじめ用意された優しさの形。
相手の沈黙を受け取る前に、正しい言葉が先に差し出される。
まるで隙間を埋めるように、迷いなく、整ったまま。
けれど人は、整えられたものに触れた時ほど、自分が見られていないことに気付いてしまうーー。
♦言葉だけが、先に私に触れる
私は、医師や弁護士等、社会的地位が高いとされている人と話していると、強い違和感を感じる事が多々あります。
言葉は、丁寧かもしれない。
態度は、穏やかかもしれない。
寧ろ、正しさとしては、何も欠けていない。
それなのに、どこか強い違和感だけが残る。
相手の気持ちが形になる前に、すでに整った返答が置かれる時、人は「理解された」と感じるのではなく「見られていないのではないか」と違和感を感じるのかもしれません。
ーー言葉は優しいのに、その優しさは、目の前の私に向かっていない。
その優しさは、ただ空気の中に、無難に落ちるだけ。
相手の僅かな揺れを拾う前に、正しい返事が先にきてしまう。
観察よりも、正さが早い。
だから、整っているにも関わらず、どこか嚙み合わない。
優しさは差し出されているはずなのに、その人自身がそこにいないーー。
ー相手に向いていない優しさは、きれいな独り言になるー
医師や弁護士等、社会的地位が高いとされている人の中には「いい人でいること」を選ぶ人がいます。
ここで重要なのは「いい人を感じているのではなく、いい人を出力として作っている」という点です。
つまり、彼ら彼女らは、相手の内面を観察して共鳴するのではなく、社会的に安全な反応を出しているのです。
結果として「優しい表情・丁寧な言葉」はあるが、その下にある観察(相手の微細な揺れ等)が弱くなります。
その演技が見抜かれる理由は、演技が下手だからではありません。
その演技が見抜かれる理由は、観察が伴っていない演技は同期ズレが起きるからです。
人の自然な対話はーー
①相手の反応を見る
②微修正する
③また、反応を見る
ーーこのリアルタイム修正があると、対話は自然になります。
しかし、演技をする人はーー
①こういう場面はこう振る舞うという事前スクリプト
②反応よりも、スクリプト優先
③微調整が弱い、若しくはない
ーーその結果、表情・言葉・間・温度差が、微妙にズレます。
これが、演技が見抜かれる理由です。
ーー視線は向いているのに、私に届いていない。
その不思議な距離が、やけに明確に伝わる。
本当に人を見るということは、正しく答えることではない。
本当に人を見るということは、答えが出る前の揺れを、少しだけ一緒に持つこと。
けれど、いい人を演じる人は揺れる前に、整えてしまう。
だから正しさはあるのに、その言葉は、静かに私の横を通り過ぎていくーー。
ー人を抱きしめる振りをして、その腕はただ自分を守っているだけであるー
医師や弁護士等、社会的地位が高いとされている人は、実際には観察をしているのではありません。
医師や弁護士等、社会的地位が高いとされている人は、観察を省力しても成立する立場にいるのです。特に「縦社会」の日本では。
たとえばーー
★権威として、受け入れられる
☆相手が、補正してくれる
★相手からの批判が入りにくい
ーーこのような環境では「観察」をしなくても、関係が成り立ってしまうのです。
その為ーー
★表面的には、優しい
☆しかし、人の気持ちの読み取りが薄い
ーーという分離が起こります。
「いい人を演じている人」は、共感が安全運用になっています。
本来の共感はーー
☆相手の変化に気付く
★そこから反応を変える
ーーという双方向の関係にあります。
しかし「いい人を演じている人」の共感は「失礼にならない範囲で安全に振る舞う」に変質します。
「いい人を演じている人」の共感は、優しさというよりも、リスク管理なのです。
ーー本当に人を見ている時、こんなに整ったりしない。
それは、もっと不器用で、もっと揺れて、その度に少しずつ形を変えていく。
けれど「いい人を演じている人」は、崩れない。
崩れないものは、どこかに触れているようで、誰にも触れていない。
その静かな距離だけが、はっきりと見えてしまうーー。
私が感じている違和感の正体は、相手の気持ちを読んだ上での優しさではなく、社会的に正しいとされている優しさのテンプレが出ている事にありまます。
問題の本質は、演技がどうかではないのかもしれません。
問題の本質はーー
☆相手を見て、変化している優しさなのか
★どの相手にも、同じ用意された優しさなのか
ーーここにあるのかもしれません。