変わったのは日本代表ではなく、私だったのかもしれない




 
 ーー1998年、私は、日本代表を応援していた。

 初めてワールドカップに出場する選手達は、小学生の私にとって、特別な存在だった。


 ところが、その後ヨーロッパのサッカーを観ることが習慣となり、私のサッカーとの付き合い方は、少しずつ変わっていく。

 世界最高峰の選手。世界最高峰の舞台。

 そして気付けば、日本代表に対する感情も、変わっていった。





 2002年のワールドカップ以降、私は日本が負けるとホッとし、日本が勝つとなぜか距離を取りたくなった。

 日本が嫌いだったわけではない。応援していないわけでもない。

 ただ、日本代表の勝利に対して、いつも説明のつかない複雑さを感じていた。



 ところが、2026年、今回のワールドカップではその感覚が薄れている。

 その変化に、私自身が驚いている。

 なぜ、あれほど長く抱いていた感情は薄れていったのだろうーー。






  ー私が距離を取っていたのは、日本代表の勝利ではなかった。たった1つの勝利で完成してしまう物語だったー



 私は、サッカーを深く知れば知る程、日本代表という存在が小さく見えるようになっていたのかもしれません。


 
 1998年。

 小学生だった私にとって、ワールドカップは夢でした。

 その舞台に初めて立つ日本。日本代表は、憧れでした。


 しかし、私は幸か不幸かワールドカップをきっかけに、ワールドカップ以上の舞台がある事を知ってしまいます。

 そこには、ワールドカップ以上のーー


   ☆世界最高峰の選手

   ★世界最高峰のチーム

   ☆世界最高峰の技術

   ★世界最高峰の戦術


 ーーがありました。




 すると、基準が変わります。

 日本代表の試合を観ていると「世界との差」ばかりが見えるようになります。

 
 日本代表という存在が、自分が見ている世界の中心ではなくなっていきます。

 問題は、ここから。



 普通なら「日本代表も応援する」になります。

 しかし、私は「日本代表に勝たないでほしい」になりました。


 若しかしたら私は、日本代表が勝利する事に違和感を感じていたのではないのかもしれませんーー。


  
   ★1つの勝利だけで、語られる評価や期待

   ☆1つの勝利のみで、語られる成功の物語



 ーーだから私は、ワールドカップの1つの勝利だけで生まれる日本国民の熱狂に「そんな単純な話ではないだろう」と思っていたのかもしれません。


 だから私は、日本国民が熱狂する度に、距離を取っていました。








 ーー日本が負けると、どこか腑に落ちた。

 日本が勝つと、なぜか心がざわついた。


 勝利が嫌だったわけではない。

 ただ、その勝利を語る物語の中に、自分の居場所が見つからなかった。





 ところが、今回のワールドカップは違った。

 日本が勝っても、以前のような複雑さがない。


 思い返せば、2022年以降、毎週のように三苫を観ていた。

 鎌田を観ていた。田中碧を観ていた。



 良い時だけではない。

 苦しむ姿も、迷う姿も、挑戦する姿も観てきた。

 
 気付けば私は、日本代表を観ていなかった。

 その中で、戦う人達の物語を観ていたーー。






  ー人は、誰が勝ったかに熱狂する。私は、その人が何を乗り越えたかに心を動かされるー



 日本代表が負けると、自分が知っている世界に、戻れた気がしました。

 日本代表が勝つと、自分が知っている世界が、揺らいだような気がしました。


 日本代表の勝利よりも、その勝利によって語られる物語の方に、私は戸惑っていたのかもしれません。




 しかし2022年以降ーー


  ☆三苫のプレミアの試合を、毎試合観る

  ★鎌田のイタリアでの挑戦や、プレミアでの苦しい時期を知っている

  ☆田中碧が結果を出しても、評価されない時期を知っている

  ★中村敬斗が、子どもの頃サッカーを辞めた時期がある事を知っている


 ーーさらに、私の庭でもある東京ドームシティのブルーイングで勉強をしながら、何十回も日本代表のドキュメンタリーを観てきた。



 
 この毎日の積み重ねにより、気付けば「日本代表」という言葉の輪郭が、薄まっていきました。

 その代わりに見えるようになってきたのは、1人1人の物語ですーー。



  ☆三苫には三苫の物語があり、田中碧には田中碧の物語がある

  ★鎌田には鎌田だけの時間があり、中村敬斗には中村敬斗だけの時間がある



 ーー私は、いつの間にか、日本代表ではなく、その中で生きる人達を観るようになっていたのかもしれません。





 だから以前のような複雑さが、薄れたのかもしれません。

 勝敗よりも先に、その人達が歩いてきた道のりを、ダイジェストやドキュメンタリーで映す作られた姿ではなく、彼らがもがき、苦しみ、挑戦する姿を、毎週末見続けてきたから。





 メッシを書く時も、拍手された瞬間ではなく、誰にも見えなかった時間を書きたい。

 ロナウドを書く時も、ゴールではなく、ゴールに辿り着くまでの時間を書きたい。

 子どもを書く時も、出来た事ではなく、そこに至るまでの物語を書きたい。


 変わったのは、日本代表ではなく、私自身なのかもしれません。





 昔の私は「どの国が勝つか」を観ていました。

 その後の私は「どのサッカーが優れているのか」を観ていました。

 そして現在の私は「誰が、どんな物語を背負ってそこに立っているのか」を観ています。



 だから日本代表が勝っても、昔のような複雑さは薄れていきました。

 私の目に映るのが「日本代表」ではなく「1人1人の物語」になっていったからです。