「春は夜桜。夏には星。秋には満月。冬には雪。それで十分酒は美味い。」
「それでも不味いんなら、それは自分自身の何かが病んでいる証拠だ。」

『るろうに剣心』比古清十郎の言葉です。
ーー春になると、子どもは、少し大きくなる。
背が伸びたわけではないのに、昨日より、遠くへ行く。
その度に、親は気づく。
あの小さかった手は、もうここにはないと。
それは、失われたわけではない。
ただ、今の姿に、静かに塗り替えられただけなのだーー。
♦見えるものが増える時、人は見えないものの意味を知る
二十四節季において、4月5日~4月19日頃までを「清明(せいめい)」と呼びます。
「清明」の意味は、万物が清らかで生き生きしている状態。
「清明」の時期、中国では「清明節」と呼ばれる、家族でお墓参りをする風習があります。
これは、ただの供養ではなくーー
☆冬の間に放置された墓を掃除する
★草を抜く
☆土を整える
ーー死者の場所を、生きている側が整える行為なのです。
ーー清明節の頃、人は、土に触れ、いない人の事を思い出す。
子育ても、よく似ている。
目の前にいるこの子が、かつてのこの子ではないと知る瞬間、人は、少しだけ過去に手を伸ばすーー。
ー世界が明るくなるほどに、心の中の静けさが浮かび上がるー
春は「生」の季節です。
ただ「清明」は、少し違います。
☆草木が芽吹く
★空が澄む
☆生命が戻る
だからこそ、逆に「いない人の存在」が、くっきりと浮かび上がるのです。
日本だと、桜の季節と重なります。
☆満開の桜
★散っていく桜
これは、生と死が同時に存在している風景です。
「清明」とは「命が戻る季節に、いない命を思い出す」という、少し切なくて、でも、とても人間らしい時間なのです。
ーー清明節の頃、人は、土を整えながら、過去に触れる。
子育てでは、土の代わりに、日常を整える。
朝ごはんを出し、服を用意し、保育園に送り、何度も名前を呼ぶ。
その繰り返しの中で、確かに何かを育てているのに、同時に、何かが終わっている。
子どもは、失った事に、気付かない。
親だけが、それを知っているーー。
♦芽吹くたびに思い出す。ここにいない、あの頃を我が子を
「清明」では、いない存在に、会いに行きます。
実は、子育てでも、同じ事が起きています。
子どもは、毎日過去の姿を失っているのです。
☆昨日の子どもは、もういない
★1年前の子どもは、もういない
ーーでも、完全に消えたわけではなく、記憶として存在しています。
記憶として存在しているとはーー
①何かのきっかけで(成長・匂い・写真等)
②過去の状態が呼び起され
③今この瞬間に、再体験される
ーーという事です。
記憶は、過去にあるのではなく、呼び出された今に存在するのです。
ーー子どもは前に進み、親は後ろを振り返る。
同じ時間の中にいながら、見ている方向は、少しだけ違う。
だから、人は残そうとする。
写真を撮り、名前を呼び、何気ない1日を、大切な日であると言い聞かせるーー。
ー記憶とは、過去に置いていくものではない。記憶とは、今に連れてくるものであるー
子どもの成長を見た時ーー
☆こんなに大きくなったと、感じる
★同時に、小さかった頃を思い出す
ーーこの時、過去の子どもが、今の中に一瞬だけ現れます。
何故、過去を消えていないと感じるのでしょうか?
人はーー
☆連続性:同じ子ども
★変化:成長している
ーーこの2つを、同時に認識しています。
だから、同じ人の中に、複数の時間が重なって見えるのです。
記憶とは、過去の保存ではなく、過去を今に呼び戻す力なのです。
ーー覚えているから大切なのではなく、大切だったから消えずに残る。
春は、それを何度も教えてくれる。
増えているようで、減っている。
進んでいるようで、終わっている。
子育てとは、終わり続ける時間の中で、関係だけが続いていくという不思議な営みであるーー。
ー今抱きしめているのは、今の我が子と、かつての我が子だー
成長とは「新しい命の獲得」であると同時に「過去の姿の喪失」でもあります。
親は、無意識に「清明」と、同じ行動を取ります。
☆写真を撮る
★動画を残す
☆思い出を語る
ーーこれは、もういない過去に、手を伸ばす行為です。
子どもにとって残るのは、どれだけ与えられたではありません。
子どもにとって残るのは、どの瞬間で愛を感じたかです。
清明が「死者との再接続」であるなら、子育ては「過去の我が子との再接続」です。
ーーあの頃の声も、仕草も、口癖も、今の自分の中に、ちゃんと残っている。
だからきっと大切なのは、何かを失わない事ではない。
きっと大切なのは、何度でも思い出せるように生きる事だと思うーー。