発見の真の航海とは、新しい風景を探すことではなく、新しい目を持つことであるー岩手ー





 ーー4歳の娘が、平安時代を歩いている。

 そう思うと、不思議だった。



 えさし藤原の郷。中尊寺金色堂。高館。

 そこには娘が生まれるずっと前、私が生まれるずっと前、何百年、何千年という時間が、積み重なっている。



 けれど、娘は、そんなことは知らない。

 でも、それでいい。歴史を理解するには、まだ早い。



 だからこそ、理解する前に、出逢っておく。

 それが、大切だと思うーー。







  ー子どもに、歴史を教えるのではない。いつか歴史を知る日のために、今日その場所に立っておくー



 4歳の娘に、平安時代の何がわかるのだろう?ーー



   ☆えさし藤原の郷を、歩き

   ★中尊寺金色堂を、見て

   ☆高館に、立つ



 ーー大人であれば、そこにある歴史を、知っています。

 でも、4歳の娘には、その歴史は、まだわかりません。


 
 きっとーー


    ☆昔の、建物がある

    ★きれい

    ☆大きい


 ーーそれくらいなのだと、思います。それでも、私は、そこに大きな意味があると、思っています。




 子どもに、歴史を教える事が、目的ではありません。

 私達が生きている今日の足元には、何百年、何千年もの時間が積み重なっている。



 それを身体で感じる事に意味があると、私は、思っていますーー。



   ☆いつもの東京とは、違う景色

   ★いつもの家とは、違う建物

   ☆今とは違う時代に、人が暮らしていた場所



 ーーそこに、立つ。

 きっと、それだけでいい。








 ーー人は、知識だけで、世界を広げるのではない。

 1度でも、その世界に、立ったことがある。



 その経験が、知らないものを受け入れるための、小さな余白になる。



 何百年も前に誰かが歩いた場所を、今日娘が歩いている。

 その小さな足跡が、遠い昔の誰かの足跡と、ほんの一瞬だけ重なるーー。







  ー人は、わかったから世界が広がるのではない。わからないものに出逢っておくことで、いつか世界が繋がっていくー



 今は、理解出来なくていい。

 寧ろ、理解出来ないまま、出逢っておく事が大切。


 そして10年後、学校で平安時代を習った時「ここ、行った事がある。」と。

 そんな記憶が、突然繋がるかもしれない。



 いつか藤原氏の物語に出逢った時、あの日の見た景色が、その物語の続きを語り始めるかもしれない。

 いつか義経の物語に出逢った時、あの日見た高館の景色が、記憶の奥から静かに蘇るかもしれない。





 経験は、すぐに知識になる必要はありません。

 知識になる前の経験が、いつか知識を受け止める土台と、なります。




 だから私は、4歳の娘に、平安時代を理解してほしいわけではありません。

 ただ、今日という日は、今日だけでは生まれない事を、知ってほしい。


 遠い昔に生きた誰かの今日があり、その今日が積み重なって、今日の私達に繋がっている。

 そして娘が生きる今日もまた、いつか遠い誰かの「昔」となる。


 時間とは過ぎていくものではなく、誰かから誰かへ受け渡されていくものだという、事を。








 ーー岩手で触れたのは、平安時代という「過去」だった。

 けれど、岩手から帰る車の中で、私は思った。



 これは、過去の話ではない。

 今日、娘が見たものが「いつか」娘の中で、何かになる。



 その「いつか」に向かって、私は、車を走らせている。

 まだ、知らない時間へ。娘の、これからの人生へ向けてーー。







  ー旅とは、知らない場所に行くことではない。未来の自分の中に、まだ知らない景色を残すことを、私は旅と呼ぶー



 4歳の娘には、まだ歴史は、わからない。

 でも、歴史の中に、立つ事は出来るーー。



   ☆わからないものに、出逢う

   ★知らない世界に、触れる

 

 ーーそして、その記憶を、持って帰る。それだけで、世界は、広くなる。




 
 今回の岩手旅行で娘に残ったものが、すぐに言葉にならなくてもいい。

 いつか何かを知った時「あの日、見た景色だ。」と。


 そう思える瞬間がくれば、嬉しい。

 

 4歳の旅は、4歳の為だけにあるものではありません。

 未来の娘が世界を知っていく為の、小さな種を蒔く時間なのだと、思う。