約束はなぜ形にならないのかー発達障害を持つ子どもとその親からー
ーー約束は、最初から消えているわけではない。
ただ、現実の重さの中で、形になる前にほどけていく。
意思は、ある。
けれどその意思は、子どもの揺れや、生活の割り込みや、見えない疲労に、何度も引き戻される。
そこでは「遅刻」も「キャンセル」も怠惰ではなく、構造の形なのかもしれない。
選ばなかったのではなく、選びきれなかった結果として「遅刻」や「キャンセル」が続くのかもしれないーー。
♦発達特性が重なる時、約束は守られないものになる
今年に入り、弊社に、発達障害を持つ親からの面談依頼が6件ありました。
私は、それらの依頼に応える為、仕事を調整し、面談日時を設定し、発達障害を持つ親と約束をしました。
しかしーー
★6件中3件が、事前キャンセル
☆6件中1件が、無断キャンセル
また、過去10年間で、発達障害を持つ親との面談において、発達障害を持つ親が、遅刻をしてくる確率は約60%です。
この数字だけを見れば「発達障害の子どもを持つ親だから仕方ない」と結論付けたくもなります。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
仕事を抱え、子育てに追われ、時間に余裕がない中でも、約束を守り、時間通りに動いている親は、たくさんいます。
では、この差は、どこから生まれるのでしょうか?
単なる努力や意識の問題として片付けるには違和感が残り、全てを特性のせいにするにはあまりに現実が複雑すぎます。
約束は、守るものなのか?
それとも、守れる条件が揃った時だけに成立するものなのか?
この現場で起きているのは、キャンセル・遅刻という表面的な出来事ではなく「約束を守る」という前提そのものが揺らいでいる現象なのかもしれません。
ーーカレンダーは、埋まっていく。
カレンダーは整い、一見すると事業は回っているように見える。
けれど、その予定は静かに消えていく。
連絡のあるキャンセル、連絡のない不在、そして、少し遅れてくる現実。
こちらは準備をし、時間を空け、その一枠に意味を持たせている。
だがその意味は、必ずしも同じ強さで共有されていない。
来るかもしれないし、来ないかもしれない。
始まるかもしれないし、始まらないかもしれない。
その不確かさごと、予定が存在しているーー。
ー見えている困難は、子どものもの。見えていない困難は、親の中にあるー
発達障害を持つ子どもの支援をしていると、ある共通した前提に行き着きます。
それは、子どもの特性だけではなく、親自身にも発達特性が重なっている可能性が一定数存在しているという現実です。
研究・臨床報告・支援現場の観察を統合した構造モデルにおいて、発達障害の子を持つ親のーー
★ADHD傾向→30~50%で特性が示唆される
☆ASD(自閉症)傾向→10~20%で特性が示唆される
ーー構造的には、約4割の親に、軽度~中度の実行機能特性が重なる可能性があります。
※実行機能:やると決めた事を、実際の行動にしていく事
ここが、核心。
実行機能は1人でも崩れますが、親子で重なると「補正が効かない状態」になります。
子ども:切り替えが出来ない・癇癪・予測不能
親:段取り・時間管理・開始の弱さ
本来なら、親が子どもの実行機能を補います。
しかし、親自身も実行機能が弱いと「二重実行機能負荷」が起こり、約束を守れなくなる確率は足されるのではなく、掛けられていきます。
♧単体の遅延リスク
親:1,3倍
子ども:1,4倍
→1,3 × 1,4 = 1,82倍
これに感情・疲労・突発が入ると、確率は2倍以上になります。
発達障害を持つ子どもの家庭では、子ども側の「予定変更の困難さ」「突発的な行動」と、親側の「時間管理の困難さ」「段取りが苦手」が、同時に存在している可能性が高いのです。
ーー支援は、そこに成立する。
確かに誰かの生活に触れ、必要な役割を果たしていく。
けれど、ビジネスは別の言語で動く。
再現性、安定性、予測可能性。
そのどれもが、この場所では輪郭を持ちにくい。
時間は使われるが、積みあがらない。
関わりは増えるが、計算には乗らない。
善意や必要性は、必ずしも収益に繋がらない。
だからここでは、成立しているものと、成立しないものが、同時に横たわっている。
支援としては機能しているのに、事業としては形になりきらない。
そのズレの中で、今日もまた1つの予定が置かれ、そして、静かに揺れているーー。
ーそれは受け継がれるのではなく、重なりながら、今ここに現れるー
発達障害の子どもを持つ親の中には、親自身も実行機能の特性が重なり、約束を守る事が不安定になる人が、一定数存在します。
そこに子どもの特性と、日常の負荷が加わる事で、約束は意思だけでは成立しない事に変わっていきます。
それでも、社会は、約束が守られる事を前提に設計されています。
だからこそ、このズレは現場で摩擦として現れ、時にビジネスとしての成立を困難なものにします。
では、この現実をどう扱うのか?
正さを求めて是正していくのか?崩れる事を織り込んだ関わり方にしていくのか?
答えは、1つではありません。
ただ少なくとも言えるのは、この現象は怠慢でも例外でもなく、一定の確率で繰り返される構造であるという事です。
この前提に立った時、支援の在り方も、事業の組み方も、そして、関わる人の視点も、これまでとは少し違う輪郭を持ち始めるのではないでしょうか?